日本における「看護」の創設には、明治維新から自由民権、大正デモクラシーへかけての日本の女性たちの、自由と自立への強い願いと意志が読み取れるからです。
とはいえ、同時にその一方で、多くの医療現場では、専門的看護教育を受けていない、旧態のままの看護師が厚い底辺をなしていたことも忘れることはできません。
この二重構造は、形を変えて今日にも引き継がれています。
戦後の一九四八年(昭和二三年)に定められた「保健婦・助産婦・看護師法」でも、甲種と乙種という二種類の看護師がつくられました。
今日もなお、正看護師と准看護師という二重構造が、看護制度の中に存在しています。
当時の多くの看護師といえば、カスリの着物に、白い前かけと帽子に足袋はだしという
姿で、未明から夜半まで働きづめだったと記録にはあります。
やがて白い制服が普及します。
住み込みで月に二、三回の公休日があるだけという、厳しい勤務実態だったようです。
それでも当時としては、正規の訓練を受けた職業的看護師として、名目的には、女教師なみに月給五円から七円を与えられたといいますから、ほかの女性の職種と比べて、やや高かったかもしれません。
けれども、厳しい勤務を考えあわせれば、高給とはお世辞にもいえません。