日清戦争と同時に、日赤の看護師は、戦地へ出陣しました。
いくさの規模はさらに大きくなり、看護師の不足が目立ちました。
日露戦争ともなれば、日赤は、速成教育で看
護婦を育て、戦場へ送り出しました。
記録によれば、日露戦争のとき、陸軍や海軍の病院に勤務した看護師長は三〇〇人、看護師は一八六六人。
軍の病院船に乗り込んだ看護師と婦長は七六四人にものぼりました。
みなさんのおじいさんやおばあさんにたずねてごらんになるといいと思いますが、「♪ニッポン勝った、ニッポン勝った、ロシア敗けた......」と幼児にまで歌わせた軍国主義謳歌の時代です。
看護師の従軍は、看護師の社会的な評判を高めました。
そして、看護師志願者が、かなりふえました。
一九一五年(大正四年)、政府は「看護師規則」を発令、看護師検定試験も行われるようになりました。
看護師が女性の専門的職業として、このとき初めて公に認められたといえるのかもしれません。
このころの日本の女性の職業の代表格と見られたのは、紡績女工、看護師、女教師などだったといいます。