明治、大正、昭和初期の女性の職業といえば、代表的なものは紡績女工、カフェの女給、女教師、看護師ぐらいなものでした。
紡績女工とは、繊維工場で働いた女性労働者のことです。
一九三〇年(昭和五年)女性の工業従事者は、一四八万人です。
その中で製糸、紡績、織物を中心とする繊維産業就業者が過半数を占めていたのです。
彼女たちの労働が、どんなものであったかは、細井和喜蔵さんの書かれた『女工哀史』や、山本繁実さんの『ああ、野麦峠』に克明に描かれています。
朝は、まだ暗いうちから起こされ、夜の一〇時、=時まで、ときには深夜も働かされたのです。
「♪篭の鳥より、監獄よりも、寄宿舎住まいはなおつらい......」と歌われた「女工小唄」は、彼女たちの労働と暮らしが、どんなにつらく、苦しいものであったかを、語りかけています。
人間は機械ではありませんから、彼女たちの中には、一、二年の短い間に結核におかされて死んでいく者も少なからずいたのです。
明治政府の「富国強兵」政策のもとで、明治、大正、昭和と、日本の近代化が進められました。
しかし、そのかげで、それを支えた数え切れない女性たちが、使い捨ての消耗品のようにこき使われ、投げ捨てられていった歴史的事実を見落とすことはできません。